トップページに使われていた写真集

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悠久の都・港区への入り口


↑港区への入口。下渋谷広尾耕地から眺める。標識の向こうは白金三光町。
 下渋谷広尾耕地から東を眺める。区界の向こうは白金三光町。港区は古今の入り交じる悠久の都。この辺りの境界はやたらグネグネしているが、何がベースになっているのかよくわからない。川ではなさそう?この道を直進すれば本妙寺。左を入ると裏手には名門慶応幼稚舎。幼稚舎と言うが小学校である。校舎は1937年完成の近代建築らしい。こだわりを持ってつくり、こだわりを持って運営しているようだ。

↑こういう編集をしたほうが受けるのかも知れない。
しかし、安直な写真には写真にはしたくないと言う謎のプライドはある。

-2025/3/28

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↑聖地・十二社にて。旧町名ならぬ旧社名。
 新宿区十二社にて。上段の「朝日新聞十二社専売所」も、下段の「株式会社十二社折込広告社」も現在は使われていない商号です。
 株式会社十二社折込広告社は1988年に株式会社十二社に改称の上移転しているようです。朝日新聞の専売店は現在はASAと言う名称を用いています。十二社販売店と言うのは朝日新聞のサイトでもヒットしなかったので、こちらも現存しないと思われます。
 西新宿営業所と書かれている銀色のプレートにはうっすら株式会社サバックと書かれていますが、この会社についてはよく分かりませんでした。
 トップページなので申し上げておきますが、十二社(じゅうにそう)とはこの辺り一帯の旧地名で、現在の行政地名では「西新宿」となっています。
2025/

神社での見つけもの①
↑「葺屋町 千疋屋」
 品川神社にて。葺屋町は日本橋区の町で、関東大震災の復興(に関する町名の整理)で1933年頃に消滅したようです。範囲としては概ね芳町2丁目1番地・2番地、または現在の人形町3丁目2番・3番の辺りです。(芳町2-5、人形町3-1も範囲内か。)
 確か、日本橋の町名に「日本橋」が冠されるようになったのは中央区成立からな筈ですから、「日本橋葺屋町」と言っていいのか微妙ですね。
 千疋屋はあの千疋屋です。
ちょっぴり驚きの事実と繋がる点群 千疋屋の千疋は、南埼玉郡千疋村に由来しています。千疋村は町村制で大相模村になり、昭和の大合併で越谷町となり現在に至ります。経緯的に大字かそれを受け継いだ町丁として残っていそうですが、現在越谷市に千疋と言う地名はないようです。有名果物店の名前の由来になっていると言う点は、地名再編のときに残す検討材料として機能しそうですが。千疋屋と千疋村のつながりは比較的早い段階で途切れてしまったのでしょうか?
 「千疋」と言う地名は、越谷市の郷土資料によれば川に近いことに由来するようです。その川を使って農産物を(下流にある)都心の方へ輸出しよう、と言うのが千疋屋の起こりであり、その川の流れ流れた先こそが葺屋町の親父橋だったのです。詳しいことは千疋屋HPにありますが、ここで一つ疑問が浮かびます。川の流れにのせて船を出し果物を下流に運ぶのはいいのですが、その船を上流に回送する場合はどのようにしたのでしょう?
 調べてみると、レファレンス協同データベースのページが出てきました。船を上流に回送するときは、なんと船に綱を括りつけて両岸から人力で引っ張っていたらしい。そしてそれを、「曳舟」と言ったそうな。もちろん、あの曳舟はこの曳舟です。地名と言うのは、このように往々にして人のありさまと結びついているのですよ。

 十二社熊野神社にて。御大典記念碑の裏側なんですが、すごくないですか?昭和7年9月と言うことは、東京市編入(同10月1日)の直前なんですよ。
 町の消滅を前に、最後に淀橋町の名を残そうと言う考えがあったのかなんて思ってしまいます。昭和7年(1932年)10月1日は地域によって明暗のわかれる運命の日になった訳ですが、その話はまたいずれ。
 ちなみに、「御大典」とGoogleで検索すると、この碑の写真が2番目くらいに出てきます。
2025/2/23-2025/3/1(葺屋町は-3/14)



↑どこかの交差点。多分国会図書館の辺り
追記:よう見たら首相官邸写ってますやんか
さらに追記:よう見たら標識に交差点の名前書いてますやんか




↑相場より安めの自販機。コカコーラやドクターペッパーは150円くらいの所が多い。神田にて

2025/1-2025/2/23

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