芝の旧町名

 港区は1947年、赤坂・麻布・芝の三区の併合によって成立しました。色々な意味で見どころの多い地域であります。私は往々にして「悠久の都」と称します。港区と言うのは、全体が一体では無いので、地域ごとの個性が強烈な空間です。全体的に共通するのが、古今の交錯であり、それこそが古くから栄えたることの証左であり、悠久の都たる所以と言えましょう。
 先に述べたように、港区は個性的な三区の集合体ですから、一個の自治体として捉えるよりも、三区の行政的な連合であると捉える方が適当です。従って、各区の毎に分けて紹介するしてまいります。

総論

 港区と言えば、今をときめく地域であることに異存はないでしょう。太古からときめき続けているのかは、令和生まれの私には知る由もありませんが、現時点においては間違いなくときめいているでしょう。特に芝浦地区の躍進が著しいようです。この少子化が叫ばれる時代にあって、巨大な小学校(中学校だったかも)が新設されたと聞きます。あるいは、「港区女子」という言葉も等閑視できません。あまりのときめきに、本来は形而上あるいは事務的な存在であるに過ぎない「港区」自体が、一つのブランドになりかけています。


現在も残る芝区時代の看板
 しかし、我々が過去からバトンを受け、未来へと渡して行く存在であることを考えると、どうでしょう。港区は、地名行政においては大きな失策を犯しました。場所によっては震災復興などを経験しつつも、概ねは保っていた近代以前からの地名区域を、単調な記号的地名に置き換え、麻布永坂町・麻布狸穴町のたった二つを残して悉く破棄してしまったのです。私が問いかけたいのは、西麻布とか白金とか、そういう記号的な名前で良いのかということです。

港区時代の町名

 単純明快、港区の町名には旧区名が頭に付きます。麻布永坂町は麻布区時代は単に「永坂町」だったわけですね。本芝・芝浦・元赤坂以外に例外は無いので、これはこれでちょっとおかしな名称が出来たりしています。
 なぜそうなったのでしょう?調べてないので想像ですが、おそらくは名称の重複を避ける為でしょう。例えば「田町」は赤坂と芝に、「新堀町」は麻布と芝にあるので、そのままでは区別できない。その上、重複するものにだけ冠称をつけるのも変だから、全部に付けることにしたんじゃないですか?

旅の入り口


日本地図センター
 あなたが港区民かそうでないかは知りませんが、このページを見ている以上は、興味はある訳でしょう。5桁円くらいくれるなら直接案内しないこともないですが、それも手間ですから、ここで案内致します。別に地図センターの回し者ではないですが、東京なんちゃら地図のインストールを強くお勧めします。理由は単純で、各年代の地図を現在の地図に重ね合わせるもっとも簡単な手段がこれだからです。

まずは歩いてみよう

 まずは歩いてみましょう。どちらから参りましょうか?

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