辻井喬

時の駕車(1995年)

感想

 今回ご紹介しますのは1995年出版の詩集、「時の駕車」です。どこかで見たような雰囲気の表紙ですね。こんな感じのデザインの教科書を昔使っていたような気がします。
 まず「駕車」と言う言葉が聞かない言葉なので意味を確認しておきましょう。駕車がしゃとは、馬車の事です(普及版字通参照)。大辞泉に収録されていないマイナー単語(「車駕」では収録されている。こちらは乗り物やくるまと言った意味合い。主に馬が牽くタイプを指すようだ。)で、「駕車」でgoogle検索すると上から七番目くらいにこの作品のamazonページが出てきます。ちなみに、「駕」と言うのは中国語では「運転する」と言う意味合いの言葉で、「駕車」と言うのは中国語では車を運転する、程度の意味合いになると思われます。

 さて、辻井さんの詩集に幾度となく手を出しては読み切れなかった私ですが、この「時の駕車」は割合感じが合ったと言うか、うまく捉えられたようなと言いますか、俄に理解できるような気がしました。つまり、手ごたえと言うか…読みごたえを得られたと言うことですね。私が初めて手にした辻井作品は「いつもと同じ春」(いか、いつおなと表記)なのですが、本書に収録されている作品はどれも文体がいつおなの物思いシーンと似たようなものであると感じました。読み上げるとそれほどでもない(失礼)んだけど、読んでいると不思議な美しさを伴った言葉の響きを帯びていると言うことですね。

 あとがきで辻井さんは、「主題と書く主体との間合いの取り方で、ライト・ヴァース的になるのは結構だが、様式としてそれを狙うのは自分には合わないように感じている」と述べておられますが、個人的にはこれはその通りで、辻井さんが軽妙な文章を書いていたらちょっと怖いです。


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